病歴・治療歴
2012年06月:定年退職後、都内で講師として働いていたが、右耳の聞こえが悪くなり、近隣の耳鼻科で中耳炎と診断され、3か月通院。いったん軽快した。なかなか治らないときは悪い病気の可能性もあると言われた。
2012年12月:風邪をきっかけに、症状が再発し、転居したため、違う耳鼻科に3か月通院したが、全く改善しなかった。
2013年01月:口内のしびれ・顔面のしびれと痛み・口が開かない・全身のだるさ等が出始めた。仕事を午前中に終えて帰宅すると、起きていられないほどのだるさだった。
2013年09月:最初に通った耳鼻科に再度行くと、すぐ国家公務員共済立川病院を紹介された。
2013年10月:立川病院で生検の結果、上咽頭癌と告げられた。転居のため、治療は国立病院機構東京医療センターを紹介された。入院がきまり、講師の職を辞めた。
2013年11月:東京医療センターに入院し、ステージⅣと告げられた。癌は三叉神経を取り巻いており、首のリンパ節に転移、脳にも浸潤があった。治療に先立ち、胃ろうを造設した。治療は放射線とシスプラチン・5-FUが選択された。
2013年12月:放射線治療とシスプラチン投与(3回)。髪の毛が抜け始めた。
2014年02月:放射線治療とシスプラチン投与が終わり、一旦退院した。
2014年03月:再度入院し、シスプラチンと5-FUの補助化学療法1回目を始めた。(26日間で退院)副作用でのど・口の痛みが出、流動食となった。疲労感が強く、歩けなくなった。髪の毛が8割抜けた。
2014年04月:3回目の入院。シスプラチンと5-FUの補助化学療法2回目を始めた。(21日間で退院)副作用がピーク。5月の3回目の補助化学療法を中止した。
2014年05月:自宅でも胃ろうでエンシュアを摂取。
2014年07月:少しずつ固形物が食べられるようになり、胃ろうを外した。エンシュアを中止した。体調が戻り、旅行にも行けるようになった。
2018年01月:固形物が食べられないようになり始めた。頬の痛みが強くなってきた。
2019年12月:むせることが増え、日本歯科大学付属口腔リハビリテーションクリニックを受診。誤嚥が始まっていると指摘された。エンシュアをゼライスで固めて摂取。
2020年02月:痛みが強まり、体調も悪化。MRIとPET検査で転移または再発の疑いを告げられた。
2020年03月:東京医療センターに入院し、内視鏡により副鼻腔内の組織を取って生検。明らかな転移や再発は認められなかった。
2020年04月:痛みと全身の疲労により、疲弊・体重減。リリカ・オキノーム・トアラセット・カロナール等処方され、調整。
2020年05月:痛みがさらに強まる。東京医療センターに通いきれなくなった。介護認定を申請した。
2020年06月:要介護2の判定が出た。立川病院に転院。訪問診療へ移行することになった。
2020年07月:訪問診療・訪問介護が始まった。医療用麻薬のフェントステープと便通のためのスインプロイク錠を使用開始。
2021年04月:放射線治療の晩期障害が進み、頭蓋底部の骨壊死が進んで亡くなりました。
【関連のエピソード】
私の上咽頭癌は内視鏡では表面に何も出ておらず、発見が遅れたと思う。
放射線治療とシスプラチンの標準治療の後、補助追加治療ができるのは体力的に限界があり、できる人は全体の3割とのこと。
東京医療センターに入院してくる患者は重傷者も多いため、一旦治療が終わるとベッドを譲るために度々退院した。同じ治療をしている人が何人も治療中亡くなっていったが、皆ベストを尽くした結果である。先生方は頼りがいがあり、看護師は皆親切で、感謝しかない。
退院後、最初のMRI検査では癌は消えていなかったが、主治医は「すぐに結果が出るわけではない」として治療の苦しさをねぎらってくれ、胸が一杯になった。治療後の手足のしびれはシスプラチン、つまり白金という重金属中毒のようなものだ。
治療を終えて5年目、主治医の先生が言うには「初めて画像を見たときゾッとしたんですよ、よくここまで頑張りましたね。」と話があった。まさに命拾いしたのだ。現在は晩期障害で辛い日々が続くが、訪問診療の先生はさすがに痛みのプロである。薬の細かな調整が繰り返され、自宅で養生できている。
治療中の人も、これから治療の人も、精一杯がんばってほしい。