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Pinocchio

治療中のメンバー

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【運営】非営利NPO法人5years
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【生まれた年】1964年

【都道府県】大阪府

【職業】会社員

【自己紹介】

会社員。大阪市に在住。
2015年8月、50歳で肺腺がん(ステージⅣ)が見つかりました。発覚は、背中がひどく痛み診断を受けたところ、背骨に転移したがんが神経を圧迫することによる痛みでした。治療は、化学療法(カルボプラチン・パクリタキセル)。背中のひどい疼痛緩和のために放射線治療も併用。以後、標準治療以外の民間療法は食事療法も含め全くしていません。
一昔前のがんの告知を希望するかどうかという時代ではなく、現在のネット社会ではあらゆる情報が手に入るのと引き換えに残酷な真実も思い知らされます。肺がんも遠隔転移している状況では治療方法は無く、痛み緩和とか延命治療しかないと。予後は極めて悪く、生存中央値が8ヶ月程度であることは直ちに知ることになりました。主治医に恐る恐る確認すると、「あくまでデータ上だから。前向きに」という回答で医学的見地での希望は無いものでした。

判明当時は、ちょうど両親の認知症がひどくなってきていました。母は10年ほど前から緩やかに、父は1.2年で急速に認知症が進行していました。(私は離婚しており妻はおらず、姉も39歳で乳がんで亡くなくしており私しか世話できる者はいません。当時の勤務先である徳島から実家を往復し対応していましたが、職場では頻繁に職場を抜けることに直接は口に出さないまでも周りに苦々しく思われており、介護離職も真剣に検討しないといけないと考えているような矢先でした)

そうした介護にいっぱいいっぱいの状況で自ら予後不良のがんに罹り、どこまで試練を与えられるのかと精神的にも最悪のなかで化学療法を開始することになりました。徳島の入院している病院を抜け出し、迷子で保護された母を引き取りに大阪まで戻るようなことが何度かあったほどです。抗がん剤の副作用で苦しむ中も両親の認知症は悪化の一途でした。両親とも急にスキンヘッドになった息子を見ても何も気づかないほど進行していました。そんなさなかに、父が急に倒れ(急性白血病でした。恥ずかしながら父の体調が悪いことは全く認識していませんでした)、末期でありほどなく亡くなりました。自分は、抗がん剤の副作用で起きているだけでも辛い中で父の葬儀を行いました。前述のとおり、妻はおらず父の親族も東京におり私しか執り行う者はいませんでした。母も夫が亡くなったことをよく理解できていませんでした。父が近くにいないので「おとうさん、出かけてんの?買い物?」とか葬儀の前後で私に訊いてくるほどです。粛々と行ったのですが、今でもどうやって手配してどうやって終えたのか、よく思い出せないほどです。父の病を気付けなかった悔しさ、亡くなった哀しさのなか、自分自身はとにかく抗がん剤の副作用で身体が辛く自分の置かれた環境を恨めしく思ってました。

【ご登録時の状況】

(2020年.6月加筆修正しました)現在、発覚より5年近くになりますが幸いなことに再発は認めらていません。2年前には、会社の後輩が、私と全く同じ肺腺がんのステージ4に罹りました。1月に判明。化学療法からオプジーボも使いましたが同年の12月に亡くなりました。彼以外にも同じぐらいの年齢で自分より後にがんになり、自分よりも先に二人の方が亡くなっています。肝臓がんと女性は胃がんでした。自分自身は、長くないことを覚悟し終活を行っていましたので、生かされていることを実感します。
治療開始後、奇跡的に新たな転移はありませんでしたが、がんの疼痛、いわゆる重い倦怠感は長く続き勤務先の会社は3年近く休職しましたが、復職することができました。今でもオピオイド系の麻薬は服用していますが日常生活は問題なく営めています。長く休職しその間も給与もそこそこいただいており、また業務に過度の負担のかからない職務で復帰させていただいたき現在も体調に十分な配慮をしてもらい会社にはとても感謝しています。闘病のため退職される方は少なくないことは存じていますので自分はたいへん恵まれていると思います。

この8月で、私も「5years」を迎えます。データ・統計上は、肺がんのステージ4の生存率は4%ほどでしたので、かなり奇跡的な確率のなか生かされていると思います。生存率が数パーセントでも、「ゼロではない」ということを最近強く感じます。サバイバー生存率は生存するほど上がります。「10years」を目指して生きていきたい。

【思うこと、考えること】

遠くない死を覚悟したためか、最近では様々な物事を達観できるようになってきました。罹ったころは、翌年のリオのオリンピックとか見られないんだろうなぁと思ってたら、リオ、平昌、絶対無理と思っていた東京五輪も観戦できるかもしれないようになってきました。新札、大阪万博、、どこまで体験できるのでしょうか。

認知症の母は健在です。要介護5なので息子の認識はできませんが、母の最期を看取るのは私しかいませんのでそこまでは生きることが残された人生の最後の目標です。当時は学生の双子の娘も大学を卒業し無事就職できました。そこまで見届けるのは難しいと思っていたのでほっとしています。結婚まで生きたいと思うようにもなってきました。

小林麻央さんもがんで亡くなりました。あの若さで本当にどうしようもなく悲しいことです。ただ、ひとつだけ彼女を羨ましく思えたのは、彼女の近くには夫、子供、実母、姉、応援し見守っててくれるファンの方々がたくさんいらっしゃったことです。一人で病と孤独に闘うのはどうしようもなく辛いことです。(娘たちは支えてくれてるので一人ではありませんが、同居はしていません。副作用のなか一人で住むことは肉体的にも精神的にも辛いとしか言いようありません)

あと自分にとって心強かったのは医者である友人の存在です。学生時代からの友人で頻繁に会うようなことは無かったのですが、がんに罹り久々に連絡したところ親身になって支えてもらいました。主治医は言葉が極めて慎重なのはやむを得ないことは了解しています。私は徳島から大阪に転院しており当初からの患者ではありませんが、私の主治医は特に楽観的というか励ましてくれるような言葉は一切仰りません。この友人や産業医は常に前向きな言葉をかけてくれました。
友人は泌尿器科の開業医ですが、地域の終末医療を対応しており年間360日朝から晩まで働くような医師です。主治医が言葉を選ぶような局面でも忌憚なく意見してくれ相談できます。プライベートでの友人である医師の存在は心強い存在で精神的な強い支えになりました。

【その他】

[血液型] O

[星座] 獅子座

[趣味・特技] 音楽鑑賞、写真、野球観戦、将棋など

[既婚/未婚] 独身(双子の娘がいます)

[好きなスポーツ] 球技全般、特にプロ野球

[好きな音楽ジャンル] 何でも聞きます

[好きなブランド] ニコン(写真が趣味です)

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肺がん


病歴・治療歴

2015年08月:肺腺がん(ステージⅣ)

2015年09月:抗がん剤および放射線治療

【関連のエピソード】
2015年8月、50歳で肺腺がん(ステージⅣ)が見つかりました。発覚は、背中がひどく痛み診断を受けたところ、背骨に転移したがんが神経を圧迫することによる痛みでした。治療は、化学療法(カルボプラチン・パクリタキセル)。背中のひどい疼痛緩和のために放射線治療も併用。標準治療以外は一切行っていません。 治療と同時に勤務先の会社は休職。2018年5月に復職しました。 2020年6月現在、再発は認められていません。


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