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5YEARSの皆様へ!はじめまして。わたくし3104と申します。此の度初めてお目にかかります。関西で生まれまして、幼少から就職までの学生時代を関西で過ごし、2008年より家族4人で関東に住んでおります40代後半の男性です。わたくしが罹患している癌名は上顎洞癌、詳しくは上顎洞腺様嚢胞癌で症状状態は上顎全摘出しましたが癌が頭蓋底~脳内まで幅広く広範囲に浸潤し、癌状態もステージ4-bといかなる手の施しようがない終末期状態の者です。幼いころから鼻だけがどうもすっきりしませんで、これは母親も慢性副鼻腔炎(蓄膿症)を患っていたせいか、小学生のときには左右の鼻とも慢性副鼻腔炎(蓄膿症)を発症し鼻づまり、鼻漏、頭痛、頭重感などに大変悩まされておりました。両親の取り計らいにより小学校6年生時に漢方などで鼻詰まり状態を良くしようと前向きに取り組みました。一時は症状もよくなり鼻詰まりも多少解消し状態はよくなっていきましたが、漢方を終了して以降は症状、状態は悪くなり“慢性”という名前は払拭できず、状態も悪化傾向、結局は頭蓋骨の成形が整った18歳の時に左右鼻慢性副鼻腔炎を左は歯茎からの切開で局部麻酔手術、右は未切開による局部麻酔鼻内からの手術を受けました。術後直後は鼻詰まりなど症状はよい状態を維持しておりましたが手術後10数年後には左鼻のみ副鼻腔炎手術経験患者の多くが罹患すると言われている左鼻術後性上顎嚢胞を私も患い治療継続しておりました。左鼻の状態は、2002年~2004年の間に3回の麻酔手術(2002年9月、2003年11月、2004年7月)を受けるも良くならず、2004年8月初旬の病理検査結果、35歳で左鼻上顎洞腺様嚢胞癌を発症、癌発症当時の痛みは術後性上顎嚢胞の痛みとそれほど変わらない痛みでしたからまさか私が癌を患うなど夢にも考えておりませんでしたし、主治医の先生に癌告知を受けても、“何の話をしているのだろう”とか“誰の症状の話をしているのだろう”等まるで他人事のように聞いておりました。しかし徐々に癌という言葉の重みが現実味を帯びてくるようになり、それがいざ現実となると言葉も出なくなり、何とも言えない絶望感や孤独感、イライラや焦燥感に襲われたのを今でもよく思い出します。今年で癌病気歴15年目を迎えた癌の状態は相変わらず手の施せないステージ4-b末期状態にあります。すべての癌患者の5%に満たない頭頸部癌の中の上顎洞癌、さらにその0.1%にも満たないレアな左鼻上顎洞腺様嚢胞癌(後述:ACC(Adenoid Cystic Carcinomaの略))の標的にあたってしまい宝くじ並みの確率になるのではと考えてしまいます。この運勢は正直他の事に使用したかったです。(苦笑X苦笑)。レアなのは罹患者数の少なさだけでなく、ACCは放射線、抗がん剤に耐性をもち、治療は主に手術による領域切除しか方法がないと癌特性までもがレアであります。また血行をくまなく移動して神経細胞に深く浸潤し染み込んでいく特性も持ち癌細胞と正常細胞の境界は極めて不明瞭、一度再発してしまうと手の施しようがない厄介な癌とまで言われており遠隔では肺転移すると死期が限りなく近づくとても怖い転移先としても挙げられています。宝くじではなく、そうしたレアな癌に当たってしまった私でありますが、現状末期の癌患者として、また一人の人間として、何かお役に立ちたい、何かお手伝いをしたいという気持ちや考えをいつも持ち続けています。私が、この厄介な癌を受け入れ、向き合うことができているのは、家族や親族のサポート、東京慈恵大学附属病院の緩和ケア・会社など周囲の方々から頂いている力があるからですが、力のコアになっている部分、つまり行動するうえで根幹となるモットーや座右の銘、“不自由を常と思えば不足無し”そしてこの銘を全うする為の基本基軸 ①人生我以外皆師也、②常に感謝の心で対峙し行動する、③今を大切に向き合い行動するという確固たる考えのもと、目的目標を掲げて、“生きること”に貪欲にこだわり日々を前向きに歩む大切さを5YEARSの皆様や周囲のクライアントの方々から頂戴し実践実行する事が出来ているからであると考えております。
幼少で幼稚園通園時の頃から小・中・高校生までの時期に患った左右鼻の慢性副鼻腔炎(蓄膿症)手術を経験後、アバウトには2002年8月下旬頃、確実には2004年9月1日オペ時に切り取った癌の断片病理診断結果ですがACCとわかり発症、癌患者となり、術後性上顎嚢胞を数回手術経験後、2012年8月下旬にはACCを再発、その冬に上顎骨を含む広範囲にわたる部位を切除しましたが切除以上にACCが浸潤した状態でした。2013年夏に再手術、上顎全摘出(腓骨再建術)でもACC全体を切除できず、ACCは奥は頭蓋底内と脳内へ、手前は口腔内粘膜へも浸潤し、2013年10月3日、手の施しようがない末期の状態である告知をうけ緩和ケア外来治療つまり在宅療養に切り替わり、同時に余命1年2ケ月という告知も受けました。希望・光が見えない中で周囲の方々の配慮や生きるためのさまざまな力を頂け、当初宣告を受けた1年2ケ月を生き、その余命からさらに2年7ケ月を生き今日を迎える事ができております。直近2015年9月のMRI撮影で頭蓋底内組織への癌細胞の浸潤(染み込み具合)が1年前に撮影した画像と比較しましても一段と鮮明に確認でき、マイナス面ばかりが増幅傾向にあるわけですが、2015年11月に大久保代表と御縁を頂戴し、5YEARSの存在を知り、登録できました事は私にとって次へ踏み出す大きな力となりました。同時に人は行動や活動を自主的に継続して行ない続けていかない限り新たな出会いや目的、目標は見つからないのであるという事、良くわかりました。自分自身もやもやしていたことに対しても納得、腹落ちさせることができました。
わたくしが勤務している会社は、日本国内全域に事業を展開していて、かつ在籍していた部署も営業系の部署でしたので転勤異動は当然のことながら不可欠であり、勤務先も1991年に入社以来、姫路、東京、福井、神戸、東京を転勤族として動いておりました。ACC発症にともない、仕事や生活スタイルを大きく変えなければならない状況になりましたが会社側の配慮もうまく作用し、転勤を伴わない管理系の部署へ異動が決まり、うまく落ち着かせる事ができました。このときは私、家族にとっても大変有難かった。少し希望や光が見えてきた中で治療法の確立されていない癌と向き合い、仕事とプライベートを何とか両立させ、治療法が手術しかない状態の中でだましだましと申しましょうか都度の手術で対応していましたが、2013年9月の手術でACCを切除した部位の病理判断がでました10月3日癌の末期状態である告知を受けました。まさに青天の霹靂とはこうした告知を突如受けた際に何が起こったのか訳のわからない事態のことを指すのでしょう。以来、東京慈恵会医科大学附属病院の緩和ケア外来に通院しており、退院直後は(癌性疼痛)、オキノーム(癌性疼痛レスキュー)、リリカ(神経障害疼痛)を服用していたが全く疼痛が収まらなかった。主治医と何度も話し合った結果、2014年4月からは国内医療麻薬で最強との呼び声が高いメサペインへ切り替え1日3錠から服用を開始しました。呼び声が高かったせいか神経疼痛には劇的な効能があった。しかしながら薬は飲めば飲むほど量的な慣れがでてくるので時間とともに疼痛も酷くなり増量をするのを繰り返しおこなった結果、1日3錠のメサぺインはMAX45錠までふえました。今では1日30錠で推移しております。薬による疼痛がなくなることを善しとするのか、薬の副作用、いわゆる副作用が酷くなる中で意識や考えがしばしば朦朧となるのを善しとするのか、先にも述べた座右の銘をモチベーションの根幹に置いて行動する中で今と対峙しております。しかしながら癌という病気にも“寿命”が存在し大変厄介なものでございます。人の寿命があるのと同時に癌の寿命もありましてこの癌の寿命というのはどんなに進行性が遅くとも寿命年という満期を迎えれば癌細胞は体の隅々まで行き渡るというものです。そして私の罹患しているACC(Adenoid-Cystic-Carunoma)の癌寿命は罹患後15年である事が判明しました。2002年9月を罹患年月と考えると、今年そして来月2017年9月が丁度丸15年目に当たります。自分自身何をどのようにすればよいのか判断の見極めが出来ずの状態がここ最近頻繁に出て参ります。このようになかなかヘビーなお話であるなかで、最近は“近況”に写真掲載をしながら5YEARSの皆様との御縁や皆様から頂戴しました、“応援します”、“いいね”の応援メッセージを拝見しながら私自身今と対峙し生きていくための大切なモチベーションとして維持している状況であります。皆様には御協力頂いている中で感謝感謝であります!
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