この病気のエピソード
2010年12月初旬、食欲不振と排便の白色化、尿の黒褐色化を発見。同時に黄疸症状を確認。肝臓に病気の原因があり、肝炎と自己診断。1週間のち消化器内科を病院で受診。直ちに入院手続きとなった。詳しい検査の結果、胆管が詰まって胆汁が消化器官に流れない、その原因は胆管がんなのか膵臓癌なのか判明しない。いづれにしても手術は免れない、との診断でした。その後は胆汁をいったん体外に出す手術をし、自分の口から体内にあらためて取り込むことで黄疸症状の改善を図らないと手術に踏み込めないとのことでした。腐ったエビの塩辛?のような味がする自らの胆汁を口にする羽目になりました。レモンを絞ったり、はちみつを入れると飲みやすくなるかも、と看護師さんはアドバイスをくれました。でも自分のものなんだから味付けなしで行こうと2〜3日積極的に飲み、褒められました。命が惜しかったのでしょう。黄疸症状が取れるといよいよ外科に回されました。手術です。2011年1月5日、松の内にも関わらず手術が行われました。術前には外科の若い主治医は、「がんによって膵臓が腫れて胆管を押し上げ、胆汁が消化器官に回らないと判断している」と自信ありげに胆管がんを否定、すい臓がんと診断しました。そして、「手術が1時間で終われば他の器官への転移が認められ、手術続行は無意味となる。胆汁が流れるだけにとどめる手術となる。その場合、後日、化学・放射線療法しかない。数時間による手術なら回復の見込みありと判断してほしい」との説明がありました。手術が行われました。背骨からの痛み止めと全身麻酔の後は記憶にありません。術後「この世に激しく」戻って、目が覚めました。ICUへの移動中、妻が「手術は4時間以上かかり、全部とれた」とささやきました。「フルコースか」と思い、ひと安心しましたが、翌日からは痛みとの戦いが始まりました。1週間以上にわたる絶食が強いられました。食欲などない状態でただひたすら痛みに耐えていましたが、医者の関心は体中の数か所にあけたままつながれたビニールホースから流れてくる体液?にのみにありました。ホースから漏れてくる体部とのつなぎ目の手当ての上手下手をめぐって、若い医師とベテラン医師が競っていました。ただ医師たちが異常に関心を持ったことに体温があげられます。1度だけ39.2度まで上がったことがありました。本人的にはそれほどに思っていなかったのですが大勢の医者たちが病室に入ってきました。こちらのほうが驚いたくらいです。術後の発熱は手術の接合・縫合失敗、感染症など致命傷に繋がることがあるのでしょう。とにかく解熱剤で何とかなりました。10日間で重湯から普通食へと徐々に刑務所(失礼)的食事は向上していきました。食欲は依然ありません。術前の倦怠感、味覚障害、食欲不振がそのままです。体重は入院時73kgから62kgと落ち込み妻の65kgを下回ってしましました。結婚時は私は92kgで妻は41kgと倍以上を誇っていましたのについに逆転を許してしまいました。これでは何のための手術だったかと疑念が生じました。すると突然、食事を完食してしまい、我ながら驚き、そのことを若い主治医に報告すると、予期していたかのように、「完食!と言って喜ぶ年齢でもないでしょう」と苦笑しながらともに喜んでくれました。
この医者は年齢の割には慎重居士でめったにいいことは言わないし、脅します。病気のステージを巡って、私は、「ステージⅡ位ですか?手術ができるのですから」と聞くと「いや、ステージⅢか下手するとⅣaかも知れません。」と脅すのです。術前に娘婿に頼んでおいた「膵臓癌のデータ」でⅢとⅣでは生存率がずいぶん違うことを私は知っていました。一塁の望みを患者が持つことを彼は拒否するような態度ですが、ある意味、正直で、いい加減な慰めは言わないのです。寒さの続く1月下旬に、一か月半の入院生活を終えて退院することになりました。主治医の慎重居士が退院するにあたって、「今日は夜に話したいことがあるので奥さん以外のご家族にも来ていてもらえますか。一生にかかわる話です。」と言って病室を出ていきました。何事かと思ったら、退院後は抗がん剤治療に半年通ってもらいたいとのことでした。私たちは余命か、再発の話か、とビビっていました。医者によっても見解が分かれたようで、主治医の主張は慎重な選択(抗がん剤投与)で、手術を主導したベテラン医師は患者の選択(投与を)にゆだねるものだったようです。もちろん私は主治医のいうことを聞く選択をしました。65歳になる男にまだ「一生」があるのですから。入院する1か月前に生まれた孫と自宅で療養することになりました。3月に入り体力が少し回復。抗がん剤治療が始まりました。肝臓、すい臓、胆管がんにはまだ2種類ほどの抗がん剤しかないようです。ジェムザールという抗がん剤でした。最初の1月は便秘に悩まされるくらいですが、そのうち白血球の数が減り1週間延期となったり、嘔吐、倦怠、無力、脱力感等あらゆるマイナス感が出てきました。まるでボディーブローを浴びすぎたボクシング選手のようです。それでも3週連続の週1回×6月分を終了できました。最後のひと月は拒否したいくらいめげていました。記憶では便秘が一番つらかったのでしょう。今でもノートに便秘日記をつけています。妻にはその表題をやめろと言われましたので「元気日記」と変えました。手術後の1年間は特に食事に注意をしました(「近況」参照)。抗がん剤治療が終わったときの解放感はすごいものでした。一気に元気を取り戻し、手術後に生徒たちから寄せられた励ましの色紙の返答に「もう一度教壇に立つ夢」を語り、実現しました。しかも常勤の職員として65歳の高齢者(?)がです。最初はきつかったです。勤務時間の5時まで職場にいることがです。一年間頑張りました。1年休息し、いまも非常勤講師を続けています。例の「日記」はノート5冊を超え、今年からはエクセルでカレンダー形式の日記を書いています。月が替わると印刷してノートに張り付けています。少し味気なくなった感がありますので、また肉筆に戻るかもしれません。
病歴・治療歴
2010年12月:黄疸症状
2011年01月:膵頭部切除・2月SSM免疫療法開始(丸山ワクチン)
2011年03月:抗がん剤治療開始
2011年08月:抗がん剤治療終了
2015年12月:この間3か月〜6か月のX線、CT、癌マーカー他検査終了
2015年12月:ホーム・ドクターと今後の相談を開始
2016年03月:ホーム・ドクターにSSM免疫療法の経過書作成依頼
【関連のエピソード】
2011年1月にすい臓がんで膵頭部と十二指腸の一部切除手術しました。3月からの抗がん剤治療(ジェムザール投与)より先に、丸山ワクチンの投与を2月から市民病院で承諾して経過書を作成していただき、住居近くの内科クリニックで5年(2016年2月で)間、週3回を行ってきています。効き目の確かさはわかりませんが自力(自分で通院)で抗がん剤投与を乗り切れたり、術後65歳となって常勤で働くことが出来たのは、その「おかげかな?」と考えています。抗がん剤投与は高齢になるほどきついようです。ドロップアウトする仲間(?)もいました。また、糖尿病のあるせいで二種類の腫瘍マーカーの数値のうちCA19-9は血糖値の上昇に伴い数値が上昇するようです。病気によってマーカーの種類や数値は違うようですので医師との丁寧なコミュニケーションが大切です。市民病院での検査・経過観察が終了し、近所のクリニックで、諸検査(主に血液検査)を通して再発、できれば転移性・原発性の癌をも早期発見していければと考えています。